笑顔を取り戻すために・・・

くま3

2011年03月19日 22:08

まず、はじめに・・・この地震で亡くなられた沢山の人達のご冥福をお祈りいたします。

また、沿岸部を始め被災された多くの方々に一日でも早く笑顔が戻ることを信じております。

震災から1週間が過ぎました。

まだ余震が続いています。

家を家族を失って、明日からさぁ頑張ろう!!とは言えません。

建物は新しくなっても、地震前の姿に元に戻ることはありません。

亡くなった方が生き返るわけでもありません。

今もなお、家族の親族の友人の安否を心配する人がいます。

誰にも見つけられずに、このまま不明者となる方もいるかもしれません。

生き残った人達で何ができるのか?

それは、亡くなった方、行方不明の方の分も精一杯生きることではないでしょうか?

オイラも今何ができるのか、真剣に考えたいと思います。

この地震を糧に、さらに日本が良くなることを信じて・・・




3月11日…悪夢の始まり…



金曜の午後、明日は野営でニヤリだな。そんなことを考えながら、過ごしていました・・・

そんなニヤリな中、会社のビルの中で地震に遭遇…

ビルのかなり上の階にいたので、揺れは酷かったです((((゜д゜;))))

その時の出来事は、一生忘れることはないでしょう。

背丈の倍はあろうかという什器が次々と倒れ、

蛍光灯は揺れに呼応するかのようにピカピカと点いたり消えたり…

女子社員の泣き叫ぶ声…

揺れが収まると予備電源に切り替わり、ビルの内部は暗くなりました。

みんな混乱している…

早く外に逃げた方がいいのでは?
いや、まだ留まるべきだ…
館内放送を待とう…

みんなそれぞれに主張するが、明らかに動揺していて冷静な判断ができていなかった。

恐怖のあまり脚が((((゜д゜;))))ガクガクなって動けない人もいる…


この時の対応は、今考えても難しいと思ってます。

結局はしばらく社内に留まった後に会社の指示で近くの避難指定場所(学校)まで逃げましたが…

揺れが収まると同時に、すぐにビル外に逃げるべきだったのか?

今回は地震後にビルが倒壊しなかったから良かったものの、

その瞬間瞬間の判断で、もしかすると命の別れ目なんて場面もあるかもしれませんね(おそらく今回の津波のように・・・)

避難しながら周りのビルに目を…

大きな倒壊もなく、余震は続くものの何とか無事。

会社からの指示で、全員帰宅命令が出ました。

交通手段もないので、みんな歩いて帰宅となりました…この時までは、津波のことは頭になかった…

途中、ワイルド1に寄るも何も買えません(;´д⊂)

雪が降りしきる中、自宅に戻ったオイラは唖然としました…

幸い外側は一見なんも変わりなく、中に入ってみると…

ありとあらゆる物が散乱。ランタンもストーブも散乱(爆)

とにかくアウトドア用品をかき集めて、保育園に向かいました。

オーナーと無事会えたヾ(^▽^)ノ

保育園の先生方には頭が下がります。ありがとうございましたm(_ _)m


それから嫁ちゃんの実家に向かい、嫁側の家族の無事を確認しストーブ、

ランタンを置いてオイラの実家に移動…この時21時過ぎくらいかな?

4号線をひたすら北上して、真っ暗な実家に到着したのが0時前だったと思います。

みんなの無事を確認していると妹から電話が…若林区荒浜で遺体が200〜300らしいよ…(?_?)

最初、妹の戯言かと思ってましたがまさか現実の出来事だったとは(;´д⊂)

必要な明かり関係の使い方を家族に教え、次の日の出社を考えて寝ましたが…

その夜は眠れず、夜中3時に仙台に向けて出発。
朝方の仙台には雪が舞ってました。



その時のラジオでは、死亡者は1000人になる見込みと報道…

地震から2日目の土曜日…
午前中、沿岸部近くにいる友人を捜索…直接会うことは出来ませんでしたが、避難所にいること、無事を確認して一安心。

午後から出社しました。
混乱の最中、各県の被害状況も不明…
安否確認で、同じ部門の沿岸部に住む後輩の行方が不明らしい…
その後輩と最後に会ったのはオイラでした。
どうやって帰りましょう?そんな質問に、とにかく帰るしかないだろう。
そう答えて、昨日別れました。
その後、情報も何も入らず何もすることが出来ず帰宅。

帰宅後、下の住人の方に声を掛けられました。
「ガソリンスタンドってどこか開いてませんか?」
詳しく事情を聞くと、旦那さんは自衛隊で沿岸部に出向いているとのこと。
いつ戻ってくるかわかりません。ポツリとそんな言葉が出ました。
避難所には灯りはあるけど、3人の子供を連れて寒い避難所生活より、毛布に包まって暗闇でも家に居たほうが温かいと自宅に留まっているとのことでした。

オイラの過剰なキャンプギアがこんなところで役に立つとは(笑)
下の住人の方に、石油ストーブ、ランタン、ガス缶、渡せる物使える物はフル活用。
キャンプやってて良かった!!
奥さんは、泣いて喜んでくれました。
でも、オイラの方が、感謝したいくらいです。
今回の被災でどれだけ自衛隊の力が必要だったか・・・


上司より日曜日は自宅待機を命じられましたが、行方知れずの後輩が心配でした。
その後輩、前週にお父さんが亡くなったばかり。
自宅のお通夜に参列していたので、自宅の場所はわかります。
地震直後に歩いて帰宅したはずなので、津波に飲み込まれる時間帯ではなかったはず。
本人はおそらく無事だろうけど…
妹が話していた荒浜の被害状況も脳裏から離れず、まさか残りの家族まで失ったのか((((゜д゜;))))
携帯も繋がらない・・・
どこかの避難所に1人で途方に暮れているかもしれない・・・
そう思うと、胸が痛い・・・。

幸い地震前に燃料は満タンにしていたので、翌日残りのガソリンを使い後輩の捜索に乗り出します。

地震3日目・・・日曜の朝
変なハイテンション・・・
ほとんど寝ていない状況なのに体って動くんですね(笑)
気持ちが体を動かすってこのことなんだなァ〜と実感しました。

明るくなるのを待って・・・沿岸部を中心に捜索開始。



海に近づくにしたがって、津波の影響が・・・
この場所から、数キロ先の後輩の自宅には道路使用不能で車での移動は無理でした。
いったん自宅に戻り、バイクに乗り換えて捜索開始・・・

避難所を転々と捜索しましたが、有力な情報を得られず・・・
沿岸部の避難所では、内陸の避難所に比べ衛生面や寒さ、食料の調達具合が目に見える形で悪いのが伝わってきました。
教室に入りきれない住民、土足の廊下に横たわる人々・・・
新聞やダンボールに包まり、寒さを凌ぐ人・・・



海に近い場所の避難所近辺の画です。

泥や津波でさらわれた物が散乱しています。

このような場所に避難所がありました。
海から数キロ、余震も続き津波の怖さが抜け切れません。



多賀城のコンビナート火災・・・近辺の臭いが酷い・・・



海からすぐの避難所に、徒歩で向かいました。

バイクでも走行不能な場所・・・











津波の危険により、避難所の機能も果たせなくなった学校・・・





ここで、オイラも途方に暮れました。

後輩自宅近辺の避難所はすべて回りました。

見つからない・・・

どこにいるんだ・・・

最悪の状況が脳裏に浮かびました。

ダメもとで後輩に電話を掛けると・・・繋がった!?



オイラの第一声は「どこにいるんだ!!」「家族は?」

聞くと、津波に飲み込まれた自宅を徒歩で探していたとのこと。
家族も着のみ着のまま無事との話・・・安心しました。
泣きそうになりました。
良かった。良かった。

すぐに後輩の居る場所に向かい、対面・・・後輩、泥まみれで裸足でした。

地震直後、3時間ちかくの徒歩の末自宅近くまで戻った後輩は、

津波に飲み込まれた地区に入ることができなく、その周辺で家族の安否確認に奔走したとのこと。

何とか家族と対面して、避難所生活を送っているとのことでした。

とりあえず、バイクに積んできたキャンプ道具を家族に渡し、後輩をオイラの自宅へ・・・

着るものと毛布、少しの食べ物を渡し、避難所へ戻しました。

後輩の家族が生きてて良かった。本当に良かった。

後輩にとっては、この2週間は本当に苦しい2週間だったと思います。

父親を失い、家を失い、これからがさらに大変だと思います。

だけど、生きていれば何とかなります。

回りのみんながサポートします。



誰かが言いました。「人が作った物なら、人さえいれば、また作れます。」

この地震で沢山の命が失われました。

今も苦しい渦中にいる方も沢山います。

生きていると信じて家族を探している方もいます。

仕事でガソリンの関係で、安否不明の家族を探しに行けない人も沢山います。

今、沿岸部や原発近隣、その他の被災地を遠く離れた家族、親族、友人、知人・・・みんなが心配しています。

今回の地震で20日現在の死亡者・不明者含め20,000人超・・・



がんばろう東北!!

がんばろう日本!!

地震前と全く同じに戻ることはないけど、必ず復興します!!復興させます!!


とりあえず、今元気な人達は上を向いて歩こう!!

心も体も疲れている人は、もう少しゆっくりしていて下さい。

さぁ、明日からまた頑張ろう!!


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SKI